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2015年1月17日 (土)

早や20年

毎冬光の祭典神戸ルミナリエ

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地震で亡くなられた方達の鎮魂と追悼、街の復興を祈念して輝き続ける。

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20年目はLEDから白熱球に換わり、一層温かい光に。

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訪れる方々の募金が翌年の開催の糧になっています。

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元町の中華街にも近いのでお立ち寄りください。

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神戸市役所南側、東遊園地内の「慰霊と復興のモニュメント

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地下には震災で亡くなられた方のお名前を刻んだ銘板が掲示。

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1.17希望の灯り
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碑文が刻まれ、震災で亡くなった方々と生き残った私達へのメッセージを発信し続けています。

以上、神戸特派員からの頂き画像でした。



1.17その前後に生まれた子供達は成人になり早や20年。

9.11と3.11に並び、あの朝のtvLIVE映像の衝撃は忘れられません。

芦屋の実家は半壊。

幸い、離れて暮らす母、弟、妹の無事を知ったのは3日後でした。

USJのウィザーディング・ワールド・オブ・ハリー・ポッター人気は大阪の景気回復に一役。

更に神戸にも足を延ばして頂く事と復興の応援に繋がります。

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日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

早いね。あの日から20年。
何も知らず朝、仕事場に行くと部屋の皆さんが立っている?
何だ、なんだ??
部屋のテレビの画像を見てたわけなんだけど、それが凄い映像で、
それが神戸の大地震!とは全然知らなかった!
どこかの外国の戦場かテロか・・・それほど日本とは程遠い場所の映像に見えました。
知らないのは私だけ。
それもそのはず、そのとき住んでいたのは友達の家で、テレビの無い生活だったの。
だから朝から、何の情報も無く仕事に出て来たの。

呆然としながら仕事をし、帰宅してからは延々とラジオの放送を聴いていました。
よく覚えています!
阪神大震災の話を聞くと、そのときのことを思い出します。

半身で震災にあったり、知り合いが遭遇したりしなくても
大惨事だった「そのとき」のことは自分の思い出と一緒に年を重ねて生きます。
年を重ねても「そのとき」のことは鮮やかに記憶にあり、自分だけが20年、歳をとりました。

あれから二十年・・・あれから三十年・・・と、また歳を重ねていくのだな。
たぶん、私と一緒に住んでいた友達も今日は「あの日」のことと、私と住んでいたころの事を思っているでしょう。
そのときに付き合っていた彼も・・・思い出しているかな?
私は毎年、震災の慰霊のニュースを見ると彼のことを思い出します。
《今では懐かしいなぁ、と思えますが》
人それぞれの「1・17」ですね。

ふんとに、あれから20年かあ…と
感慨深い(。-_-。)
高速道路の高架?が、崩壊している映像が今でも
目に焼き付いてます
朝起きて目に飛び込んだ映像に、
何が起きたのか、理解を超えてた。
会社で寄付が募られ、微々たるものだけど
出したのを覚えてます
自然の恐ろしさを初めて目の当たりにした
出来事でした

当時勤めていた会社(←これは北海道にある)の本社(←大阪)の方が
この震災で、家屋倒壊のため亡くなりました、お腹の赤ちゃんと共に…。
親戚のマンションもヒビが入ったり…
高速道路崩落のニュース画像にも、とてもショックを受けたり…
もう20年なのですね、
当時の色々な事が今でも鮮明にしみじみ思い出されます。

おさかなさん

一番冬の冷え込みの底の時期に家を家族を仕事を
生きる糧を突然失った方々の「1・17」は今も記憶は鮮明でしょう。

青春時代の思い出を長々と語って頂きありがとうございます。
tvが無い、ラジオで聞いてた・・・関東大震災の時代みたい。happy02
きっとその元彼も元カノを思い出しているかな。
それとも忘却の彼方?
それってゴージャスなラブホの人でしょうか?

思い出って音楽や匂いで鮮やかに甦る事が時々あります。
そんな時に懐かしさと時間の流れを感じます。

姫乃さん

倒壊し横倒しになった阪神高速が写し出された時、ダメかもしれない。
死んだかもしれないと思いました。
神戸市東灘区の現場は隣接する芦屋市との境界辺りだったから。

母方のご先祖様が九州から早大に入った頃、関東大震災に遭っています。
当時まだ珍しかったcameraでその惨事を撮り記録と共に遺しました。
度々TV局や新聞社に提供し報道されて、家宝のようになっています。
それもあって余計に絶望しそうになりました。
その時に生き延びていたから、今の自分があると思うと感慨深いです。


小夏椿さん

近所の御世話になったおばさんが亡くなりました。

燃えさかる長田の街、日ごとに想像を超える甚大な被害と犠牲者。
ようやく駅に降り立った時、景色が一変していて言葉を失いました。

大事な事は忘れない事。
犠牲者の死を無駄にしない事。
地震大国に生きる限り何時、誰にでも起こりうる自然の脅威と対峙
していかねばなりません。

あ・・・
それは・・・
違いますねcoldsweats01

テレビのニュースを見ることが出来なかったけれど、
ラジオも延々と生々しい状況を伝えていました。
それは現場の状況ではなくて、各ラジオ番組がリスナーの「現地に住む、親類や友達知人の安否の確認」をお願い事として、実名と住所と電話番号を放送していました。
切実でした。聞きながら同じ気持ちになりました。
友達と二人、ただ黙って聞いていたな。
それしか出来ることはなかった。
もちろん、その後、募金などはしましたが、次の東北の震災の時は、阪神の震災を教訓として、東京で救援活動をしている人に九州から米やら電池、紙おむつ、お尻拭きなどなどとにかく一番必要なものを送ったですよ。
すでに東京では電池も水も店頭から消えていたらしいの。
その後、一ヶ月ぐらいしたらこちらのスーパーの店舗でも物不足の「ビラ」が貼られるようになりました。
阪神の震災は世界的にも「色んな教訓と災害グッツの開発」に役立ったと思えます。
それを一番感じているのは東北の方々でしょうね。
そして今は阪神で同じ思いをした人々が、かなりボランテイアで活躍されている。
本当に寒い日でした。
被災された方々はもっと寒かっただろう。
震災の報道が在る度に、避難先はここ。とかトノと話したりする。
毎年、報道して欲しい。
皆が忘れずに、そして「話し合い」が出来るきっかけにして欲しいです。

ウチも「役に立たないことを祈りつつ」懐中電灯やろうそくは玄関や枕元に置いています。

おさかなさん

再びありがとうございます。
あ、違う方?失礼しました!
お若い頃は〝おさかんさん〟だったのですね・・・happy02

阪神淡路では直下型の恐ろしさ、東日本では津波の恐ろしさを学びました。
東京も輪番停電で暗く寒い思いをしました。
スーパーの棚は何も無くなるし、不便を強いられました。
が、東北の惨状に比べれば何って事ないと思えました。
現地では物資と共に正確な情報が欲しいんですよね。
何故、救援が来ないのか?
消防車は?
救急車は?
道路も交通機関も遮断されて安否の確認も儘なりませんでした。
九州までも物不足が生じたのは知りませんでした。
そう言えば最近は桜島や阿蘇の火山活動が活発ですね。
気を付けてください。
防災グッズに必要な物にスリッパがあります。
阪神淡路では早朝で暗い中、飛び起きて飛び散ったガラスの破片を
踏んで怪我をした人が多くいます。
ウチの弟も足の裏をザックリ切りました。
ベッド横のナイトテーブルには、スリッパを用意しています。

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